石油危機。第1次石油危機は1973年、第4次中東戦争を機に石油輸出国機構(OPEC)が生産量を減らし、石油の値段を4倍に引き上げた為に石油価格が高騰、それに伴って世界各国の経済は混乱し、物価が上昇した。第2次石油危機は1979年、イラン革命を契機とした原油の高騰。
■オイルショック
オイルショックは、1970年代に二度あった、原油の供給逼迫および価格高騰と、それに伴う経済混乱のことを指す。石油危機、石油ショックとも称される。
▽第一次オイルショック
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格を21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。
アメリカと同盟関係にあった日本では、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外す様に交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
更に石油価格の上昇は、エネルギーを中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。日本でも、ニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、オイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速されることとなった。国内の消費者物価指数で1974年は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などが抑制。結果1974年は-1.2%と戦後初めて、マイナス成長を経験し、戦後続いていた高度経済成長がここに終焉を迎えた。
トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動)、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。
競争力を失った「構造不況業種」を縮小させ、成長分野に資源を振り向ける「積極的調整政策」。素材産業の不振、加工組立産業の成長。
雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)
テレビの深夜放送の休止(特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止と日中(総合ではUHFテレビ試験放送を含め月〜金曜日の15時〜16時台前半。なお、国会中継や高校野球中継が行われた場合は休止時間帯でも放送されていた。教育では14時30分〜17時30分の内1〜3時間)の放送休止。)
優良企業の銀行離れが進む。間接金融から直接金融(株式発行など)、内部資金依存へ
また、省エネ対策の一環として深夜の電力消費を抑制しようと、ネオンの早期消灯やテレビジョン放送の深夜放送休止(NHKは日中の15時〜16時30分ごろ、並びに深夜23時以後の放送を休止、民放も24時半以後は放送休止となった。一部の独立UHF局では早朝〜昼間も放送休止になった)、およびガソリンスタンドの日曜休業などの処置が取られた。民放5社が深夜放送の自粛を決定したのは、1973年12月14日。
日本の国産旅客機YS-11の生産中止はオイルショックの影響だと一部で語られることがある。確かにYS-11の生産中止の時期は第一次オイルショックと重なるが、すでに、1970年末の政府決定により生産が中止されていたので、これは誤りである(正確には約20機分の追加生産用の資材調達が中止になった)。
▽第二次オイルショック
1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇(余談だが、4段階目の値上げについては総会で合意が形成できなかった)。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。
しかし、第一次での学習効果、省エネルギー政策の浸透(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第一次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた)、企業の合理化効果などにより、日本経済に対する影響は第一次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第一次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。
▽オイルショックの与えた影響
先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明白となった。中東以外での新しい油田開発、調査が積極的に行われるようになった。原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道をはじめとする公共交通機関を再評価する動きが出た。
フランスのジスカール=デスタン大統領の発案により、1975年に第一次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第1回先進7カ国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエ城で開催された。
インフレ傾向を強めていた先進国経済は、オイルショックによりスタグフレーションに突入。1971年のニクソン・ショックと合わさり戦後世界経済の成長体制は破壊された。工業化による投資で対外債務を膨張させていた南米やアフリカなどの開発途上国は石油輸入コストの急上昇で債務返済を遅延することとなり、国際金融問題となった。
石油輸出国は、輸出価格の急騰により政治・経済両面でのパワーを持つこととなった。輸出対価として得たドルは世界金融市場の中で存在感を強めた。湾岸諸国は莫大な歳出が可能となり、福祉の充実を達成した。
▽その他
中国での石油需要増加予測や地政学的リスクを背景にした原油先物市場における思惑買いに端を発した2004年から2006年にかけての(目立った供給減少を伴わない)原油価格高騰が、これら石油ショックの再現となるのではないかとの懸念もある。
■オイルショック
オイルショックは、1970年代に二度あった、原油の供給逼迫および価格高騰と、それに伴う経済混乱のことを指す。石油危機、石油ショックとも称される。
▽第一次オイルショック
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格を21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。
アメリカと同盟関係にあった日本では、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外す様に交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
更に石油価格の上昇は、エネルギーを中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。日本でも、ニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、オイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速されることとなった。国内の消費者物価指数で1974年は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などが抑制。結果1974年は-1.2%と戦後初めて、マイナス成長を経験し、戦後続いていた高度経済成長がここに終焉を迎えた。
トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動)、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。
競争力を失った「構造不況業種」を縮小させ、成長分野に資源を振り向ける「積極的調整政策」。素材産業の不振、加工組立産業の成長。
雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)
テレビの深夜放送の休止(特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止と日中(総合ではUHFテレビ試験放送を含め月〜金曜日の15時〜16時台前半。なお、国会中継や高校野球中継が行われた場合は休止時間帯でも放送されていた。教育では14時30分〜17時30分の内1〜3時間)の放送休止。)
優良企業の銀行離れが進む。間接金融から直接金融(株式発行など)、内部資金依存へ
また、省エネ対策の一環として深夜の電力消費を抑制しようと、ネオンの早期消灯やテレビジョン放送の深夜放送休止(NHKは日中の15時〜16時30分ごろ、並びに深夜23時以後の放送を休止、民放も24時半以後は放送休止となった。一部の独立UHF局では早朝〜昼間も放送休止になった)、およびガソリンスタンドの日曜休業などの処置が取られた。民放5社が深夜放送の自粛を決定したのは、1973年12月14日。
日本の国産旅客機YS-11の生産中止はオイルショックの影響だと一部で語られることがある。確かにYS-11の生産中止の時期は第一次オイルショックと重なるが、すでに、1970年末の政府決定により生産が中止されていたので、これは誤りである(正確には約20機分の追加生産用の資材調達が中止になった)。
▽第二次オイルショック
1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇(余談だが、4段階目の値上げについては総会で合意が形成できなかった)。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。
しかし、第一次での学習効果、省エネルギー政策の浸透(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第一次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた)、企業の合理化効果などにより、日本経済に対する影響は第一次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第一次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。
▽オイルショックの与えた影響
先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明白となった。中東以外での新しい油田開発、調査が積極的に行われるようになった。原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道をはじめとする公共交通機関を再評価する動きが出た。
フランスのジスカール=デスタン大統領の発案により、1975年に第一次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第1回先進7カ国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエ城で開催された。
インフレ傾向を強めていた先進国経済は、オイルショックによりスタグフレーションに突入。1971年のニクソン・ショックと合わさり戦後世界経済の成長体制は破壊された。工業化による投資で対外債務を膨張させていた南米やアフリカなどの開発途上国は石油輸入コストの急上昇で債務返済を遅延することとなり、国際金融問題となった。
石油輸出国は、輸出価格の急騰により政治・経済両面でのパワーを持つこととなった。輸出対価として得たドルは世界金融市場の中で存在感を強めた。湾岸諸国は莫大な歳出が可能となり、福祉の充実を達成した。
▽その他
中国での石油需要増加予測や地政学的リスクを背景にした原油先物市場における思惑買いに端を発した2004年から2006年にかけての(目立った供給減少を伴わない)原油価格高騰が、これら石油ショックの再現となるのではないかとの懸念もある。
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